今回、西山1号窯の調査では篠窯に関する新たな知見がいくつも得ることができました。
そこでブログを通じて、その調査成果の一端をご紹介したいと思います。
篠窯は、奈良時代から平安時代にかけて焼き物を中心に操業された窯です。
奈良時代では貯蔵の道具や食器として使われた須恵器(すえき)が作られ、平安時代になり平安京に都が移ると、篠窯は都に住む人々の生活を支える窯跡となりました。
さらに9世紀末には貴族や地方の有力者が好んだ緑釉陶器の生産を開始し、特徴的な形をした須恵器の鉢とあわせて篠窯産の焼き物が日本各地に運ばれました。
(大谷3号窯で出土した9世紀末の焼き物)
しかし、藤原道長が活躍した10世紀末から11世紀初めには、篠窯は焼き物生産を止め、瓦の生産へと転換したことがこれまでの考古学的な成果から判明しています。
(焚口からみた1-2号窯)
それでは、なぜ、全国有数の焼き物の生産地であった篠窯が、瓦生産へと転換したのか?
焼き物から瓦生産への変化は、抜本的なものだったのか、それとも漸移的なものだったのか?
こうした素朴な疑問については、実のところ、この時期の窯跡の調査がすくなく、不明な点が少なくありませんでした。
(手前:1-1号窯、奥:1-2号窯)
緑釉陶器、須恵器といった焼き物、そして瓦を生産していたことが明らかとなった今回の西山1号窯の調査では、この問題を解き明かす1つの手がかりを与えてくれました。
今回発見された2つの窯跡によって、焼き物から瓦へと移り変わる変化が段階的であり、窯跡の構造を変化させていった過程が把握できるようになってきました。
具体的なことについては、明日、ご紹介したいと思います。
今日は、写真撮影を行い、補足的な図面作成の作業を行ないました。
夕方の雨を避けるように宿舎に撤収し、生活当番が準備してくれたインド料理のサモサに舌鼓を打ちつつ、カメオカの夜は更けていきます。
(N)